なりたかった自分と何者でもない自分

 最近こういう文章を見て思うところがあった。切り抜き方が書いた人の本意ではないかもしれないけど。割と気に入ってる文章である。

 職業人は、社会に出てから二度死ぬのだと。

 一度目は、何ものでもない自分というものを受け入れる過程で。
 そして、二度目は40才の声を聞く中年となった頃、やはり自分は何ものにもなれずに人生を終わるのだということを受け入れる過程で。

kyouki.hatenablog.com

 10年前の自分はというと、今頃は何ものかになっているか、どこかで野垂れ死んでいることだろうと思っていた。だから、今みたいな何ものにもなっていない自分というのはあまり考えていなかった。

 割と負けず嫌いな方なので、色々なことをやろうと試みて、そうしている間に妻と結婚して、子供が2人生まれた。

 妻と出会って命を拾った。

 子供が生まれて子供の父として生まれかわった。

 そうして忙しく暮らしているうちに自分が何ものになろうかなんていうのは割とよくなってしまった。子供が生まれるまでは仕事から帰って、食事して、風呂に入ったら他にも色々と勉強していたものだけれど、子供の世話をするうち、そういうこともしなくなり、そのうち段々職場のカラーにも染まってくるし、子供は子供で面倒を見なければならず、なりたい自分、なりたかった自分になることはそのうちお留守になった。

 お留守になったけど、それでいいと思った。

 

 独り身でずっと過ごしていたら、こういう風に思っているかはよくわからない。

 結局のところ、一人で生きようとすると、自分のなりたい自分とか、なりたかった自分とか、自分は何もので何をなしたのかというのを自分のやることで引き受けないといけないので、歳をとってくるとそうやって自分と向き合うのはとても辛いことだと思う。

 だから家族がいて良かったということではないし、子供がいることを言い訳にするわけでもない。ただ、もう昔みたいに何ものかにならねばならぬと思っていた自分はもういなくて、どうにかして家族を養わなければいけないからやることやるという自分が今ここにいるということみたいだ。