なりたかった自分と何者でもない自分
最近こういう文章を見て思うところがあった。切り抜き方が書いた人の本意ではないかもしれないけど。割と気に入ってる文章である。
職業人は、社会に出てから二度死ぬのだと。
一度目は、何ものでもない自分というものを受け入れる過程で。
そして、二度目は40才の声を聞く中年となった頃、やはり自分は何ものにもなれずに人生を終わるのだということを受け入れる過程で。
10年前の自分はというと、今頃は何ものかになっているか、どこかで野垂れ死んでいることだろうと思っていた。だから、今みたいな何ものにもなっていない自分というのはあまり考えていなかった。
割と負けず嫌いな方なので、色々なことをやろうと試みて、そうしている間に妻と結婚して、子供が2人生まれた。
妻と出会って命を拾った。
子供が生まれて子供の父として生まれかわった。
そうして忙しく暮らしているうちに自分が何ものになろうかなんていうのは割とよくなってしまった。子供が生まれるまでは仕事から帰って、食事して、風呂に入ったら他にも色々と勉強していたものだけれど、子供の世話をするうち、そういうこともしなくなり、そのうち段々職場のカラーにも染まってくるし、子供は子供で面倒を見なければならず、なりたい自分、なりたかった自分になることはそのうちお留守になった。
お留守になったけど、それでいいと思った。
独り身でずっと過ごしていたら、こういう風に思っているかはよくわからない。
結局のところ、一人で生きようとすると、自分のなりたい自分とか、なりたかった自分とか、自分は何もので何をなしたのかというのを自分のやることで引き受けないといけないので、歳をとってくるとそうやって自分と向き合うのはとても辛いことだと思う。
だから家族がいて良かったということではないし、子供がいることを言い訳にするわけでもない。ただ、もう昔みたいに何ものかにならねばならぬと思っていた自分はもういなくて、どうにかして家族を養わなければいけないからやることやるという自分が今ここにいるということみたいだ。
5年前に買ったMacBookProのOSを入れ直して環境を整備し直す日記その5
ある種のエリートの方々の露悪趣味の耐えがたさ
豊田真由子さんという国会議員の方が秘書にモラハラを働いて議員辞職したとか、しないとか、そんな話題があって、その中で、豊田さんの友人という人がプライベートな話を暴露してて、いや、そのあなたのFacebook日本語で世界に向けて全力で発信されてるんですけど、いいんですかって思ったりしたり、しなかったり。わざとやってるのか知らないけど、わざとならすげえなと思う。
それはそれでどうでもいい話で、ただ、その暴露話の中で自分達が名門と言われる学校の中でいかに異端児だったかという説明をしているんですが、その異端児というのがある種のクラスタ*1に属する人たちにとっては全然異端じゃなくて、ごくごく普通のことで、そういった言動が驚くべきことであるかのように書かれているけど、どうなんだそれと思う。
私、田中絵里緒は、名門学校の中でかなり異端児。中学の時点で学校にエロ本を持ってくる、パーマをかけてくる、もちろん校則違反の色つき模様つき髪飾りは日常茶飯事、などなど。自分が先生に怒られるだけでなく、パーマの時は親も学校に呼び出されて怒られる、ということもありました。うちの親は私に対して怒り「呼び出されちゃったじゃないの!」と言いながらも、この悪ガキ娘はしょうがない、とある程度分かっていました。(中略)そんな対照的な二人が、なぜか仲良くなったポイントは、「ダサい女でモテない人生を送るのはイヤ」「男の人に愛されたい」という所で気持ちが通じ合ったことでした。親や学校の締め付けが厳しく、自分はもっと自由にしたい気持ちがある。でも、名門学校をやめたくないし、頭の悪い女の子たちに交じってバカばっかりやるのも納得がいかない。東大には入りたいし、将来成功するコースを進んで社会的にも認められたいけど、イイ女にもなりたいよね、そのためには学校の言う事だけ聞いてダサくしてちゃダメよね、というようなことを、よく話し合いました。
なんか悩みのレベルが高級で頭がクラクラするんですよね。こういうところで悩めるんだったらそれは東大くらい入るよなあって思うわけです。いい学校に入って、周りが優秀で、親もそこそこ優秀なんでしょうか。そうだとするとこういうよくわからないことで悩むよくわからない人になるのでしょうか。僕は低級なことでしか悩んだことがないのでよくわからないです。
一方、別の東大OBの方も、こんなことを言ってたりします。
大学時代はマージャンしたり、クラブでバイトしたり、フットサルのイベントを開いたりと不真面目にぷらぷらしていました
個人的な経験から言えば、麻雀打つのなんてごくごく普通のことだし、クラブに入り浸るのも、バイトするのもごくごく普通のことだし、イベント開くのもごくごく普通のことだと思ってて、不真面目と言われると僕は学生時代あまり真面目ではなかったのか、周りが不真面目だったのかなあとか思ったりします。ただ、やはりある種の人たちにとっては麻雀するとか、クラブで遊ぶとかは別に普通なことであり、なんかこういうできる人たちにとってのダメなことというのは世の中割と普通なことなのかなとかギャップを感じることがあります。
他のときにも、とある大手総合商社に就職した友人の結婚式に行って、その友人の友人とかが、スピーチで色々と学生時代の自分達のしてきた武勇伝的なことをさも露悪的にいうわけですが、それが全然悪いことでも、武勇伝でもなんでもなくて、合コンで飲み過ぎたとか、そういうレベルなんですけど、なんか、この人たちこれで本当に楽しいんだろうかと心配になったものです。
これまでの人生の中でたまに合間見えるガチのエリートの人たちの自称良くない行いっていうのが、大して悪いことじゃないというこのどうしょうもないギャップはなんなのか、その正体がわからないままでいます。
5年前に買ったMacBookProのOSを入れ直して環境を整備し直す日記その2
今日はTeXを入れています。
TeXLiveというのを入れるといいみたいなので、下のページを参考に、TeXLiveを入れた。
最近は便利なもので、TeXLiveのページからインストーラを引っ張ってきて、ネットインストールできる。凄い。インストーラは公式から引っ張ってくる。
$ curl -O http://mirror.ctan.org/systems/texlive/tlnet/install-tl-unx.tar.gz
解凍して、rootでインストーラを走らせて、今インストール中。
$ sudo ./install-tl --repository http://mirror.ctan.org/systems/texlive/tlnet/
オプションのレポジトリの指定をしないとうまく走らなかった。いろいろとやってくと、コマンドを選べと言われるので、"I"を入れるとインストールが始まって、今インストール中。長い。
ところでまだYaTeXってあるのかな。
5年前に買ったMacBookProのOSを入れ直して環境を整備し直す日記その1
今日はとりあえずHomebrewを入れた。奥村先生のホームページにある通りにやった。普通にインストールできた。凄い。最近は楽でいいです。
PATHには既に
/usr/local/bin
がPATHの銭湯に入ってたので特に何もしてない。しかし最近は仕事でWindowsしか使ってないので、Linuxのコマンドをものすごい勢いで忘れている。
あと、戯れに、ターミナルで、
cc
と打ったら、gccは入ってないからインストールするかと 言われたので、インストールするといったら勝手にgccとg++が入ってた。あとはGfortranを入れないといけない。ただ、プログラム組む前にエディタを入れないといけないので、とりあえずemacsを入れる。
いろいろ面倒なので、Homebrewでとってくる。
これだけでいつの間にかApplicationフォルダにemacsが入ってる凄い。その後パッチ当てて、でもMetaキーはEscに割り振られてて面倒なので、~/.emacs.d/init.elに以下を加える。
(when (eq window-system 'ns) (setq mac-command-modifier 'meta))
これでCommandキーがMetaキーになる。今日はとりあえずこの程度。あとはTeXとYatexとRubyとPythonを入れれば大体終わりかな。